マッチング対策(日本)④~難問:うつ病と落ち込みの違い?~

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マッチング対策(日本)④~難問:うつ病と落ち込みの違い?~

挨拶

ハイ!ナイストゥミーチュー!セザキングです。これまで3日連続でマッチング面接の体験談をお届けしてきました。残り2回となりましたが、今回は印象深かった難問をご紹介していきます。

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精神科医からの難問

「うつ病の人と落ち込んでいる人の違いは?」

これ超いい質問だけど、明確な答えを持っている人はどれくらいいるだろうか。これは精神科医だからこそ普段から考える命題だと思われるかもしれないが、実は誰にとってもこのような問いを考察することで社会の見方が変わる可能性がある。予め断っておくが、精神疾患に関する見解は医師でも意見の割れるところなので、ここではあくまでも僕自身の意見を述べているに過ぎないことを明記しておく。

さて、この質問はこう言い換えることもできる。

「健康と病気の違いは?」

そもそもこの質問に正解はあるのだろうか。これも繰り返しになってしまうが、結局は試験官の「好み」に合うかどうかが問題になってきてしまう。僕個人としては明確な正解を持っているのだが、それでもやはり人それぞれ見解は異なるだろうし、それはそれでいいと思っている。

国家試験で求められるものとの違い

またこの質問は場面によっても正答が異なる。どういうことだろうか。端的に言えば、国家試験で求められる回答は、マッチングの面接でのそれとは異なり非常にシンプルなのである。それは、「診断基準を満たすかどうか」それだけである。

国家試験の性質上、文章から臨床像を把握し病態を推測しなければならない。よって、文字のみが診断の手がかりとなる。だが実臨床では、患者の雰囲気など言葉では表現しにくいものも診断のための非常に大きなヒントとなりえる。同じ希死念慮でも、「本物の」うつ病の「死にたい」と、境界例(ボーダーのことね)の「死にたい」では全く訳が違う。しかし、その雰囲気の違いをかぎ分けることを紙面の試験に求めるのは事実上不可能であるため、結局は診断基準に頼ることになってしまう。僕はMedic MediaのQ-Assistで再三「診断基準を覚えてください」と言ってるのはそういう背景がある。

だからもし、さきの質問に国家試験で求められるような回答をするのであればこうなる。

「診断基準を満たすかどうかです。」

さらに優秀な回答をするのであれば、診断基準を正確に諳んじればいいだろう。

正直、多くの方がこのような回答をすると思う。でも、もし僕が面接官であれば、「診断基準を満たす」で40点、正確な診断基準を知っていても60点くらいしかあげないと思う。何故なら、実臨床では「診断基準に照らし合わせればうつ病っちゃあうつ病なんだけど、なんか違うんだよなぁ」って症例で溢れているからだ。

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診断基準とは

例えば、失恋で落ち込んだ学生が、ご飯も食べられず、授業にも集中できず、好きだった部活にも顔を出さずに、「もう死にてぇ、なんもうやる気でねぇ」とか友達にLINEしていたら、診断基準に無理やり当てはめようとするとうつ病と言えてしまう。でも、だからといって「じゃあ抗うつ薬飲んでね」とはならない。このように形式的に診断基準に照らし合わせて診断することを「操作的診断」と呼ぶ。国家試験の危うさの一つは、このように操作的な診断方法ばかりを伝えてしまうことにあると思う。

「じゃあ診断基準ってなんだよ?」と思うだろう。これが作られたのにはある背景がある。精神科の性質上、画像や検査値のような客観的な指標が他の科に比べて乏しい。もちろん、今では色々な検査が導入されて客観的に評価できるものも増えてきたが、過去は今よりも乏しかった。となれば、結局専門科の「主観」に頼らざるを得なくなる。だから、同じ症例に対してある人は「◎だ」と言い、他の人は「△だ」と言い、「□だ」と言う人も出てくる。実際、どれが正しいとも間違っているとも言えず、そういうものだとされていた。しかし、これでは困ることが出てきた。それは薬の評価である。つまり、治験だ。

専門科の中で意見が分かれているとは言え、薬の効果を客観的に評価するためにはある程度統一性を持たせる必要が出てくる。そこで、「誰もがなんとか納得できる共通見解の」診断基準を設けることになった。つまり、治験のために診断基準は生れたのである。これは是非理解しておいてほしい。

個性と疾患の境界線

では、実臨床で活きる「うつと落ち込みの違いの見極め方」とは何か。これを理解するために、改めて問題をすり替えてみる。

「個性的な人とパーソナリティ障害の違いは?」

断っておくが診断基準を満たすかどうかではない。それを確認しただけでは結局何の解決にもならないからだ。僕も自他ともに認める変な人だが別に診断名はついていない。同様に、個性的な人は世に溢れている。「めっちゃくちゃ変な人」だって沢山いる。でも、彼らが皆病気だというわけではない。一方で、診断名がついている人もいる。その違いは何か。これが答えだ。

「その精神的な特性により社会生活に支障をきたすかどうか」

これだけである。つまり、「どれだけ変でも自分が思い悩んだり、または社会に迷惑をかけてないならOK」である。だって、何にも介入点がない。一方で、「個性が強すぎて社会生活に影響は出てしまうであれば介入pointがあるので病気」と言えてしまう。(個人的にはどれも個性の延長だと考えているので、「病気」という言葉は使いたくないが定義を明確にするために敢えて用いた。)実はこの考え方は精神疾患のみならず身体疾患にも共通すると考えている。「身体の症状または特徴が社会生活に支障をきたすかどうか」で疾患かどうか判断できる。例えば「ほくろって病気?」「身長低いのは病気?」という問いを考えることで理解ができるはず。どれも程度の問題であり、何らかの支障が来した場合に病気とされる。ただ、病院を受診する患者の殆ど場合は何らかの支障を来しているから受診しているのであるためこうした議論にはならない。

繰り返すと、「どれだけ変でもその人も周りも普通に暮らしている」のであれば何もする必要は無いし、「その性格が原因で仕事が続かないのであれば」自分の行動または環境を変える必要がある、この時に初めて診断を付けることで、本人にとって気づきを得たり、社会サポートが得られるようになる。

社会が病気を規定する?

さらに話を深めると、診断に社会が関わるということは、移ろい変わり行く社会が病気を規定しているということでもある。これは確かにそうなのだ。江戸の世の話をすると、この時代には職業の種類が今の何十倍もあったようだが、今はその数が減ってしまった。つまり、働き方が画一化されて(誇張表現だが)誰もがサラリーマンとして働くようになった。

発達障害とされるクラスターの人たちがいる。彼らの特長の一つに興味が限定されることがある。これはこれで素晴らしい能力だと思うが、実際に社会で求められるものはコミュニケーションスキルであったり、処理速度であったりする。彼らはそれがうまくできない。それがあまりにもできないと、不和を生んだり、転職を繰り返すことになり、終いには精神科の門を叩くことになる。さて、彼らは本当に病気なのだろうか。僕はそうじゃないと思う。

彼らは江戸時代では寡黙だが立派な職人だったかもしれない。それが街に出てサラリーマンになった途端に問題児になってしまった。やはり、社会が病気を規定しているのだ。社会は我々が作り出している。つまり、我々が病気を規定しているとも言えてしまう。さらに深堀していくことも可能だが、今回の主題と逸れてしまうのであえてやめておく。

具体的にどう答えたか

さて、ようやく本題に戻る。今回のこと踏まえて、どう答えたらいいだろうか。

「その気分の落ち込みによって学校に行けない、または仕事を続けることができない等、社会生活に多大な支障を来すかどうかの違いです」

僕の答えはこれ。当時、どうやって答えたのか正確には覚えていないが、今ならこんな感じで答えるだろう。何度も言うけど、これはあくまで僕の「個人的な体験」であり、「個人的な見解」なのでこれが必ずしも正解ではない。

こんなことを考えていましたよって、ことが分かってもらえたら十分である。

では、最終回は動画でも話したあのテーマをお届けする。

しーや!

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