「医者と医学部がわかる」②~臨床以外で生きていく~
挨拶と告知
ハイ!ナイストゥミーチュー!SEZAKINだよ。最近、北原先生が僕のことを無理やりSEZAKINに仕立て上げようとするので、それに乗ってあげていますよっと。さて、また更新が滞ってしまった。実際、毎晩なんらかのコンサルかミーティングが入ってるのでブログ書く時間というか余力がありませんでした。すいません。あ、今月16日に久々にUSMLEライブやるので宜しく御願いします。また告知します。
↓YouTubeもよろしくね。
↓あ、AERA Englishにも載りました!これも記事にします!(いやまじで早めに)
前回のおさらい
さて、今回は前回の続きを話していきましょうか。前回は、朝日出版社の「医者と医学部がわかる」の記事を持たせて頂いたことを紹介しました。読んでくれたかな?その記事は、「次回はセザキングがUSMLEコンサルタントになった経緯を話す」みたいな感じで締めくくったと記憶しております。言ったからには話すぞよ。
実は将来的には、医師のキャリアコンサルタント的なポジションにもつけたらおもろいなって思っているので、いずれこの記事も書籍化されるつもりで書きます。ただ、多分内面を全てさらけ出すことはできない(したら大変なことになる)し、文章量もとんでもないことになるのでさぐりさぐり書いていくことにしましょう。医師のキャリア論には賛否両論はあるかと思いますが、キャリアについて悩む人達は必ず一定数いると思うので、そんな方々に少しでも参考になればと思い筆を執っているというわけです。
「なんとなく」入った医学部
多分に漏れず、僕も「なんとなく医学部入っちゃった勢」の一人であったことは既に話した。(口調変えます)入学時は、医学という学問ではなく「医学部という外見上華やかな存在」に期待を抱いていた。つまり、その医学部という煌びやかな箱を通してキラキラハッピードクターになろうと思っていたのだが、卒業後の姿を具体的に描こうにも、そもそも選択肢をそんなに知らなかった。そのためTVや映画で見るような「きらきらとした医師像」や、当時流行っていたドクターGみたいなものを暫定的なロールモデルとして据えることにした。こんな学生も多いんじゃないかと思う。しかし、当時を振り返ると確かにそこには違和感があり。心の底からそうなりたいと思う自分はそこには無かったと断言できる。つまり、自分を偽っていたのだ。
そんな違和感を抱えつつも、USMLE(正確には医学英語)に出会った後(大学3~4年時)は、自分で言うのもなんだがかなり勉強にコミットした。この辺の詳しい経緯は過去記事を参照してほしいが、USMLEを開始した理由は臨床留学したかったからではない。英語や学歴に対するコンプレックスの解消が目的の主軸であり、それに並んで「医学を極めることで医学自体に対する興味がわく、つまり医師としての将来像が明るくなること」への期待があった。
実際にこれは功を奏した。USMLEの勉強を通じて、医学はおろか勉強自体が好きになったのは、めちゃくちゃ大きな副産物だった。そんな時期にふと思ったのは、「こんなに沢山勉強したのに診療科を1つに絞るのって損じゃね?」だった。そこで、必然的に総合診療科に興味が向いたのだ。ミーハーなのでドクターGに影響されまくったというのもある。しかし当時、色々な病院に総合診療科が乱立し、その後結局店じまいをしまくっている世の中であった。そんな中、様々な場面で出会う人生の先輩(医師)にキャリアについて聞かれて、「総合診療科を考えている」と答えると、冗談ではなく本当に鼻で笑われたのだ。当時のSEZAKINには全くの不可解であったが、今なら先人たちの言わんとすることが部分的に理解可能かもしれない。
診療科の選択とビジネスの関係とは
ビジネスの世界に身を置くと嫌というほど実感することなのだが、余程の大企業でもない限り世の中のニッチなニーズに応えていかないと成功は難しい。例えば、僕が「勉強のコンサルタント」をしても絶対に芽が出ない。何故なら守備範囲が広すぎて、あまりにもライバルが多いからだ。そもそも勉強全般を対象にしたコンサルトは多分いない。それを英語まで絞ってもまだまだ市場が巨大過ぎる。これをUSMLEまで絞って初めてニッチなニーズに応えることができるようになる。この話は今後事業を持ちたい人には超重要で毎回テストに出るからよくよく吟味してほしい。
最初は「なんでだろう」と首をかしげていたが、臨床に出てから少しずつ腑に落ちるようになっていった。臨床現場では「○○と言えば○○科」というように専門的な知識や手技が求められることをひしひしと感じていたし、個人単位でも「自分が○○ができます!」と言えるのが非常に重要だった。しかし、実際に総合診療科のある病院で働いたことで、総合的な知識や診断力が卓越した総合診療医の存在は確かに必要だと思うようになったし、大変助けられたので感謝している。それでも患者が何か困ったことがあると最初に家庭医に相談するようなアメリカと異なり、いつでもダイレクトに専門科に相談できる日本のシステムで総合診療の存在意義は認知されにくいのかもしれない。まぁ言いたいことは、総合診療科に進もうかと思ったら誰も背中を押してくれないし、結局自分としても消去法で選んでいるのでまた振り出しに戻ったということだ。
「不適応者」は確かに存在する
さて進路が決まらず学年だけは上がっていき、いよいよ実習が始まってしまった。結論を言うと、この辺りで「臨床医以外の道で生きていく方法はないか」と思い始めた。そう思うに至った理由はいくつもあるが、ここはまじでオフレコな部分もあるので言える部分だけ言おうと思う。この時点で断っておくが、決して臨床医としての道を否定するものではないし、自分自身もまだ臨床医を細々と続けている身なので、その時は真剣にやっている。しかし、社会への不適応を感じながら生きている医学生や医師は確かに存在している。そんな人たち各々が最高のパフォーマンスを発揮して最大の社会貢献ができるようになれば皆ハッピーだと信じている。だからこそこんな記事を書いている。あの北原先生の言葉を借りれば、「医師が働く場所を選ぶ時代」に加えて、「医師が自分の働き方さえも選べる時代」が来ていると思うし、そうなって欲しいと思う。
↓北原先生の本。僕も少しだけお邪魔させて頂いた。臨床留学に興味があるならとりあえずの1冊。
組織で働くことの困難さ
まず1つは、大きな組織に属して働くことの困難さに気が付いたことだ。高校時代まで人生で規律の厳しい組織に属したことが全くなかった。高校時代はボウリング同好会というゆるゆるな組織に属していた。それが故に自由に過ごすことが出来ていたのだが、浪人時代にその自由さが仇となり予備校の友人関係が非常にこじれた。自由な校風の東海高校とは大きく異なり、医学部進学予備校にはある程度の規律が存在したということだった。例えば授業中の態度を指摘されたことなど一度もなかったが、予備校では態度が悪いと注意されてびっくりした。と言っても、授業を妨害するなんてことはない、ただ眠い時に我慢できずに寝てたり、ぼーっとして授業を聞いてなかったりすることがあったのだが、どうやら世間的にはそれは良くないことだと気付かされた。当時は非常に辛かったが結果的にこれは個人的には非常に重要な経験となった。自分が傷付いただけに人の痛みを理解できるようになったし、どのように生きるか考えさせられるキッカケになったのだ。
確かに僕は偏った人間だが、ルールを知ればそれに従うこと自体は可能だ。基本的には和を好み、争うことはまずない。しかし、大きな組織には往々にして「なぜそれに従わないといけないのか」と疑問を感じるようなルールが存在する。そして、納得ができない(大抵の場合は支配層が得をし、それ以外の人達が損をするような)ルールに従うことに非常に強いストレスを感じるのだ。今は大人になったので、それに歯向かうこともないし、別に文句も言うこともない。ただ、自分には合わないので物理的に距離を取ることにしている。営利組織とはそういうものだと気付く。言うまでも無く病院は大きな組織だ。自分のクリニックでも持たぬ限りは組織に属し、誰かが決めたルールに従うことになる。最初は「慣れの問題かな」とか「自分が成長すればいいのか」のように思っていたが、実習などを通じて徐々に気が付いてきた。「あ、これは本能的な問題だ」と。となれば、いかに組織に属さずに生きるか考えねばならない。そんな大学5年生だった。
何のために学ぶのか
もう1つは実習が始まってもやはり特定の診療科に惹かれることが無かったことだ。当時STEP1に命をかけていた。さて「何故医学の勉強をするのか。」という問いに如何に答えることができるだろうか。大学で学ぶ臨床医学は基本的に実学である。故に「医学を学ぶ主な理由は臨床で実践するため」というのが模範解答かと思うが、僕は「実習よりも勉強(座学)したい」と思っていた。全くの本末転倒である。自分でも重症だと分かる。でも、これが偽りのない自分の気持ちだった。当時、周囲の同級生の声に耳を傾けると「色々考えるのが好きだから内科が好き」とか、「手技が好きだから外科が良い」のような声が聞こえてきた。しかし、セザキングはこうだ。「考えるなら机の上が良い」し、「手技はしたくないし、むしろ誰かにさせたい」。我ながら普通じゃないことは気が付いていた。でも、これって外には言えないだけでそう思っている人いるんじゃないかな。「医師は高潔であるべき」みたいな風潮がまだ強いしね。
最後の1つはあまり言及できないのだが、あえて言うなら医学というより「医療への不信感」があったことだろう。極めてセンシティブな問題なのでここでは語れない。ただ、その不信感をもつ構造にフルコミットすることは出来ないと感じていた。これは日本独自の問題も多少は孕んでいるため、米国への臨床留学を後付けで肯定する結果となった。
人生を充実させる「交差点」
人間が充実した人生(仕事)を送るためには2つの軸で考える必要があると思っている。それは、その仕事が「自分が心からしたいと思えること」、そしてそれを「世間が喜んでくれること」だ。どちらかが欠けると真の幸せを得ることは難しいと思っている。だから自己犠牲ばかりしていても潰れてしまうし、自分の快楽ばかりを求めているといつか絶対に足元を掬われる。この「2軸の交差点」を探すのが人生の旅だと講演会でも語ってきた。
だからSEZAKINにとっては、大きな組織(病院)で働くことは、如何に世間(患者)に喜ばれることであっても、それ以外のあらゆるストレス(ほら、働くと色々あるよね)に耐えることでもあり、自分をすり減らしてしまうことだった。(ちなみに今はメインの仕事の合間にクリニックでバイトをしているので気持ちよく働けている)。これを続けるといつか我慢の限界が来てルールを破ってしまいそうになる。大きな組織で働く自分がどうしても好きになれなかったのだ。
次回予告
さて、長くなってきたのでここで一旦切ります。次回は「臨床医以外に社会貢献できる仕事をしたい」という自分の気持ちに気が付き、如何にして田舎の医学生はその道を模索したのかという点について言及してみます。医師のキャリア論って既に色んな人が書いていると思いますが、結局最も説得力があるのは「その道で活躍する人を知って会って話すこと」でしょう。そういう点で、最初のハードルをクリアさせてくれる本書はとても有意義だと思います!キリっ!
ではまた。しーや。
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